コメント 淡麗辛口に独特の含み香と旨味をプラスした 喉越しが良い吟醸酒です。 辛口 ● ・ ・ ・ ・ 甘口 淡麗 ・ ・ ● ・ ・ 濃酵 オススメの飲み方 ・ ● ● ● ・ ロック 冷や 常温 ぬる燗 上燗 容量 300ml アルコール分 16度台 日本酒度 +6.5 酸度 1.2 アミノ酸度 1 原料米 (麹米/掛米) 五百万石/こしいぶき 精米歩合 (麹米/掛米) 60%「五泉の小黒」の隆盛に倣って酒造りを開始 二代前に分家独立した「五泉の小黒」の隆盛に倣って酒造りを始めたのが当蔵の出発でありました旨、伝えきいております。私の曽祖父にあたる小黒粂治が長女を連れて北蒲原郡葛塚町大字嘉山に隠居、酒造免許を取得、「隠居仕事」と称して酒造事業を興した訳です。明治41年10月のことです。五泉の小黒の銘柄は「松の雪」、どんな酒であったのかは、もはや知る由もありませんが、ともかく「五泉の小黒」がキッカケで「葛塚の小黒」がスタートした様であります。 小黒粂治は自田からの収穫米を原料米に、近くの砂丘地の井戸水を仕込水にして酒を醸し、出来た酒は地元の消費者に直接売り捌いていた様です。 自ら杜氏を努めながら合理精神を発揮した二代目岩人。酒造の仕組を改革して、現在の当蔵の基礎を築く。 大正9年に粂治が亡くなり、代わって養子の岩人が引き継ぎます。やがて彼は大蔵省の醸造試験場にて酒造技術を修得して自ら杜氏を努めながら合理精神を発揮して、それまでの経験則一辺倒の酒造りをシステム化させていきます。岩人は科学的な裏付けを得ることによって、酒造の仕組を改革して高収益をもたらし、現在の当蔵の基礎を築きました。特筆すべき事例の第一は琺郷タンクの先駆的採用であり、第二に当時としては珍しいびん詰商品を出荷したことです。衛生管理が可能になり酒質は向上し、欠減を防ぎ、生産拡大と増収益に貢献したものです。当時は第一次大戦後の景気も衰え、不況の嵐が吹き荒れて大方の蔵元が苦戦を強いられた中で、当蔵が益々隆盛となり得たのは、他ならぬ革新技術の先駆導入にあったことは明らかです。この頃、銘柄を「朝日晴」に改め、昭和7年には本蔵を新築し、販売方法も小売店への直売方式を拡大し、顧客の確保に努めました。 自主流通米制度の登場による自由生産の時代を迎え、岩人は昭和39年、高さ16mの鉄筋コンクリート酒造工場の建設に着手します。近代化工場に投資するという一大決心を支えたもの、それは創業以来の合理精神だったのです。 「越乃梅里」の発売へ。新しい歴史が始動。 昭和58年に「梅里」という名の本醸造を発売しました。遅ればせながらの新発売でした。 「越乃梅里」が本格的に発展するようにたったキッカケは、東京・新宿に本店のある伊勢丹との取引です。「顧客づくりを手伝う」というテーマに向かって実践した想い入れが種々の提案となって受け入れられ、新しい商品を生み、そしてそれらが結果として売上実績をつくるという好循環をもたらしたのです。平成7年秋、関東信越国税局鑑評会で首席第一位を受賞。思ってもみなかった幸運を手にします。人々の「越乃梅里」に対する関心度と酒質に対する信頼度を増幅させてくれました。かって、2,000石を割ろうとしていた出荷石高は僅か数年の間に4,000石を超え、特定名称酒比率75%という水準に達していたのです。いま時代は極端な買い手市場だと思います。造り手、売り手の都合よりも、消費する顧客の願望が勝る時代です。「顧客選択」の時代です。もう一度基本に戻り、事業の存在価値を再度築き直す時にきているのかも知れませんね。わが蔵の新しい歴史のための発想の転換は是非にも必要です。 小黒酒造株式会社 代表取締約社長 小黒 秀平